さ行

さかもと
坂本
さくらまち
桜町
さんご
三郷
さんだんてっきょう
三段鉄橋
さんと
実戸
しおじり
塩尻
しまだ
島田
しみずちょう
清水町
しもまち
下町
しょうげんじ
松源寺
しょうじ
じょうづかいやしき
定使屋敷
しょうぶがたいら
しょうわまち
昭和町
じょろがたき
上臈ケ滝
しりなし
しんまち
新町
すえ
すえひろちょう
末広町
すぎのちょう
杉野町
すみだ
角田
すや
ずんさがり
せきへきじょう
赤壁城
せと
瀬戸
ぜにがめ
せんだばし
千旦林










さかもと 坂本
 「恵奈」の字が最初に見られるのは 七五〇年に恵奈郡から婢を一人差出したという 東大寺奴婢帳である。今から千年以上前に作られた 和名抄という本に 恵奈郡には六郷があるとしている。当時の郷は今の市町村界の様に山や河で区切るという方法ではなくて 五十戸をもって一郷とするという行政区画であった。このため人口稀簿なこの地方においては 一郷でも実に広大な面積を占めていたのである。地名 水田 水利地形 古墳の分布などを考え合わせてみると その六郷は
 淡気 たむけ 山岡 明智辺
 安岐 あぎ 阿木 岩村辺
 絵上 えなのかみ 福島 上松辺
 絵下 えなのしも 坂下 福岡 付知辺
 坂本 さかもと 神坂 落合 中津川 坂本
 竹折 たけおり 大井 武並 三郷辺
と考えられる。
 坂本は勿論坂のもと である。上古に於て信濃国へ越す神坂峠は東山道中の最難所であり 峠の頂上では行旅の無事安全を祈って 神に供え物をするのが常であった。このことは万葉集にある。
 ちはやぶる 神のみさかに 幣まつり
   いわう命は おもちち(母父)がため
という信濃から召されていった防人の歌や 峠から発見される石製模造品とよばれる 鏡 剣 玉をかたどった小型の石器などによって明らかである。この神坂峠のもとが坂本であった。茄子川の小字 坂本は中仙道の坂の下であったので つけられた名である。

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さくらまち 桜町
 中央公民館の前の、通りが桜町である ここに小学校があった頃 その土堤に植えられた桜が大きくなって美しかったので 桜町と呼ばれるようになった。
 現在の南小学校の位置に小学校が建ったのは大正十年のことで 新しい方を南校舎 現公民館の位置の分を北校舎とよんでいた これが全部南小学校の位置に移転完了したのは 昭和六年のことであった。

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さんご 三郷
 苗木の三郷は 津戸---わたし場 かりやど---殿様が来て泊られた 仮の宿 狩の時 来て泊られた宿 おおくご---大きなくぼ 又はさわ の三部落があるからである。
 恵那市の三郷(みさと)は野井 佐々良木 椋実の三村が合併して出来たからである。

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さんだんてっきょう 三段鉄橋
 北野 子野川の鉄橋は 汽車のレールの段と 橋げたの段と その下にかかった人間の通る橋と 合わせて三段になっているので三段鉄橋という。
 明治四十一年七月坂下まで中央線が開通した当時は、水面からレール面までの高さが 日本で二番目に高い鉄橋であった。

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さんと 実戸
 一説に坂本の二軒家のように三戸しか家がなかったからとあるが 三軒なら、こ、というべきで とというのは瀬戸 津戸などと同じように ところであろう。
 戸は木戸というように入口のことである。江戸というのが川の入口の意であるように 山の入口、山のはじめというので 山戸かも分らない。

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しおじり 塩尻
 夕立で洗われた畑へ行って見ると 見つかることが多かったので 昔の人は矢の根石のことを雷様の爪といった。矢の根石の中には 黒ガラス様に輝いた黒曜石のものがある。
 この辺では黒曜石は産出しない。この近くでは塩尻(日本海側から 又は太平洋側より塩を運んだ終点、しりだから塩尻)東北方の和田峠がその産地である。縄文時代の遺物である石のやじりの中に、黒曜石が入っていることは、既に縄文時代からこの辺りと信州との間に交易のあったことを示すものである。その通路は科野坂(今の神坂峠一五九五メートル)であった。

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しまだ 島田
 中村 中津川の中州 水で囲まれた島に水があったので島田 本州製紙の社宅が建てられた

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しみずちょう 清水町
 古い地図でみるこの辺の字は 清水垣外である。がいと かいとは貝戸 皆渡 開土 外土 界外 皆洞などの字をあて部落の意である。従って清水垣外は清水の豊かな部落のことである。
 現在のように家が建てこむ以前は こんこんと湧き続ける泉もあって 学校子どもは 学校の往き帰りに飲んだものであった。どこを堀っても 清冽な清水がわき出し、井戸などもニメートルも堀ればそれで充分であった。
 水道のひかれた現在でも 飲料水はすべて井戸水を使用し 水道は他の用水にしか利用していない家もある。この豊かな清水から 清水町の名がつけられ 町の発展に伴って 竪清水町 横情水町などと分れたのである。
 宮町の信号機のある交差点を少し北へおりた 五島さんの屋敷から土師のつぼが出土している。土師 はじ は赤い素焼の土器で古墳が作られていた時代に作られていたものである。土師器は弥生式土器の系統のもので、手づくねで形をとり、細かい刷毛やへらで形を整え、低火度の酸化焔で焼き上げたものである。すわりの悪いつぼが出現するのはかまどにかけ煮沸用に使用したからである。こうした土師が出土しているのも古代の人間が この豊かな清水に着目して ここに住居を営んだからである。
 土師器はこの外 本州製紙へいく途中のマツダモータースの辺 手賀野原猪三雄氏屋敷 消防署の辺 一中の下の辺などからも出土している。

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しもまち 下町
 横町からさらに 西へ折れまがった しもの方がしも町である。矢野書店の前にある小祠を 今はおてんの様とよんでいるが 明治末期迄は おたてふさまと呼んでいた。
 中津川宿が本町に移された当時の町は 本町 横町、下町で この小祠の辺が町外れになっていた。おたてふ様は 御立文様で ここに高札場があった。それでいつか社の名にまで転用しでしまったらしい。濃洲徇行記という本に「高札六枚町外にあり」とあるが 高札はここに 高く掲げられていたのであろう。高札というのは 江戸時代 切支丹を禁止するとか 徒党を組んではならないとかいった禁制を分厚い板に書付け辻などの交通量の多い所に掲げて 人々に示したものである。
 駒場の市川製茶工場の辺をごはんぎようとよぶが高札場のことを ごはんぎよう といったということなので この辺に駒場村の高札場があった。

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しょうげんじ 松源寺
 スポーツセンター北の中央線陸橋を渡って さらに百五十メートルばかりいくと 工場の看板に 大栄工業松源寺工場の文字を読むことができる 後田のこのあたりに松源寺の名があるのは 手賀野の松源寺がもとここにあったからである。
 恵那神社誌に「津島神社寛文三年(一六六三)の棟札に、関山日下小比丘とあるのは手賀野松源寺の開基なりという。松源寺 字東原にあり。山城国葛野郡花園村妙心寺の末寺にして 禅宗臨済派なり 元駒場にあり寛永元年(一六二四)四月此の地に移転せり」とある。
 工場の東方の林の中に 寺の存在を物語る五輪塔数基が残っている。
 昔の人は肉体を構成するのは 地 水 火 風 空であると考えた。そして地を方形 水を円(球) 火を三角形 風を半円 空を宝珠形に象ったものが、五輪塔である。平安中期より 供養塔 墓標 舎利塔として用いられた。石造が多いが 金属 木 泥などでも作られたとある。この辺に残存するものはすべて石造であり、有力土豪の墓であるという。楯ブレスと国道の間にも五輪が数多くあったが これは高野山の末寺があったためである。刀の折れ 銭 茶碗のかけなども出土していた。中央線敷設の折 この五輪は大方埋立にぶちこんでしまったという。今でも楯ブレスの南の畑の中に多少の五輪が散乱している。
 この五輪塔がやがて一枚の板碑に 空風火水地と文字で刻みこまれるようになるのであるが この一つが小石塚鷹見氏の軒に残っている 年号は寛永三年(一六二六)である。
 これ以後江戸時代になると戒名を刻みこんだ 将棋の駒の形をした石塔に変化していくのである。
 しかしいつの世にも 古い真似をする物好きもいて、泉町大泉寺跡には 江戸末期の年号の入ったものも残されている。
 中村から中津川の方へおりる坂に五輪坂があるが、坂の途中に五輪塔があるからである。松源寺の今の本堂が建てられたのは 安政二年である。

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しょうじ
 本町の白川茶の店から南へ入る道が うわしようじ 佐藤肥料店の西軒を下へ入る道が したしようじである。そうじは細い水路を意味することばでもある。上小路 下小路をもとは河原だったからとて河原町ともよんでいた。
 農協の東の道は 昔は新酒屋小路とよばれた これは今の農協の位置に 丸八間氏の 新家があったので新酒屋しようじである この家が改造されて中津川銀行となり 更に農協に引継がれてくるのである。
 梅村書店の東の小路が おうぎやしようじ 今の八百屋の所に おうぎやとよぶ家があったからである。
 仲神自転車の前 パチンコの横の道が 山川しようじ これはパチンコの所に山川さんという医者がおられたからである。黒川屋の横にあるのが黒川屋しょうじ。

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じょうづかいやしき 定使屋敷
 手賀野岡本氏の前の辺が 定使屋敷である「定使一人 米四石地頭山村甚兵衛より宛行わる」という記事が中津川村の項に出ているので ここにおって「切符を配ったりしよった」手賀野村の定使も 四石位の手当をもらったものであろうか。

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しょうぶがたいら
 本州製紙対岸にある ここは武田勝頼勢侵入の際の戦場になり 戦の勝負の定まる決戦場となったので勝負平である。
 又 しようぶは水路のことで 水路の通っている平を しようぶが平とよび 菖蒲が平の字をあてることもある。古くはここにも田んぼがあったが みやま街道を人が通らんようになったので「しやないで しょうぶが平にや 木い植えたぞえん」

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しようわまち 昭和町
 実戸の下の方であるこの町並は 昭和になってから出来たので。
 昭和は書経の「百姓昭明 万邦協和」よりとったもの。

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じょろがたき 上臈ヶ滝

 南北朝時代の中津川は千旦林八幡神社の木像に、観応という北朝の年号が入っている所から、北朝の勢力の下であったと考えられる。
 しかし信州は後醍醐天皇の皇子宗良親王らが活躍をしていた。
 時移り 足利義満の頃になると 宗良親王の子尹良親王は信濃の戦に敗れ 美濃に潜入された。尹良親王の妃なども難を逃れて川上に落ちのびかくれられた。忍び隠れ給うた所が即ち かくれ洞である。やがて尹良親王敗死の報を得た上臈たち(身分の高い婦人たち)は滝に身を投じて 親王のあとを追われた。それでこの滝を上臈が滝とよぶようになった。
 この尹良親王の伝説は 笠置 蛭川 高山 川上と木曾川北岸に続いて在るので 川うえの伝説が 同じ字を用いる川おれに、持ち込れたともいわれている。
 下って織田信長がこの辺りを領有していた頃 部将森蘭丸が手賀野と尾鳩の間のおんたけに砦を築いた。この山が蘭丸山である。本能寺の変後 蘭丸戦死の報を聞いた上臈たちが 川上の滝にいたり入水したので上臈の滝とよぶようになった。

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しりなし
 追分からごんねを下ると一帯に水田が開けているが木曾川へ向って狭くなり 水田もなくなってしまう。人間でいえぱ尻の辺からなくなった感じなので尻無し更に西の洞は 尻無より小さい洞なので小尻無。

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しんまち 新町
 江戸時代の始めには 本町 横町 下町しかなかった宿場に新しく出来た町並なので 新町とよんだ。

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すえ 陶
 もとは恵那郡陶町であったが 今は瑞浪市の陶町である。これは須恵の器を焼いた所から すえの名がついたものであり 全国的にも広く分布している地名である。
 日本の焼物は縄文式──弥生式──土師と発展したのであるが 古墳最盛期の五世紀中頃 朝鮮半島よりこの須恵の技術が伝来したものである。今迄よりも良質の陶土を選び 手づくねではなくろくろを使用して形を整え いわゆる登り窯──斜面の下に焚口があり 窯の本体は斜面にトンネル状につくられ 丘の上部に煙出しの孔があいている──で焼き上けたものである。
 土師に比して高い温度 千度以上の還元焔で焼かれた結果 鼠色又は暗青色を示している。本来は上薬を施したものではないが 灰がおちて熔け自然釉となっているものも少くない。すこぶる竪い焼きであるので破片を打ち合わせると チンチンという音を発する程である。
 須恵器の出現は容器類を著しく豊富なものにした。貯蔵用のつぼ かめ びんの類 食器としてのつき、高つき 皿の類 調理用のすりばちなど さらに祭器などの特殊な器種を含めて実に多種多様にわたっている。ただその性質上 煮沸用には適さないため これには土師の器があてられたのである。 
 古事記 日本書記 延喜式などの古記録には約五十種の名称が掲げられているが これらの中 実物と対比可能のものは、さほど多くない。この多種の須恵器が当時の豪族間に新流行としてもてはやされ やがて墳墓にもちこまれることになったため 後期の横穴式古填からは極めて多く出土するのである。須恵器については精密な研究が進んでいるので 須恵器を見れば年代が判定される程である。従って古墳出土の須恵器より 古墳造営の年代が推定されるのである。北丸山の古墳 中村の古墳 小石塚の古墳など 中津の古墳からも 多くの須恵器が出土している。しかし焼いた窯はまだ発見されていない。

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すえひろちょう 末広町
 四つ目川のそばの黒川屋の横にあった 黒川屋小路を 中に入ると十間長屋があり 更にその南 今の主婦の店あたりには わりと家があったので 道の末へいって広がっているというので末広町。通り抜けるとおえべっ様へ北側から行けたものである。
 日露戦争の前の頃には 中津には肉屋といえば この末広町の柴田与吉さという馬肉屋があるだけであった。今の市役所の辺には 勝野の三工場があり そのすぐ下の辺に店があった。馬肉は喰うと黒い泡が出るなどと 云ったが ひこずりにしては喰ったものである。また馬肉の罐詰には美しい桜の花がついておった。罐詰といえば 当時はつぐみの漬鳥の罐詰もあった。当時宿屋の料金は 並二十五銭 上等三十五銭位であった。朝布団をたたむと 旅人のおいていった しらみの居ることは 珍らしくなかった。
 黒川屋小路も 末広町も 河原町も 昭和七年の水害により消滅した。黒川屋小路を少し入った所に ふろやがあったが この水害の時入浴していた人が 風呂桶に入ったまゝ 駅の近くまで流され士砂に埋もれていたという。

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すぎのちょう 杉野町
 田んぼであったのを 明治の終りごろ 杉本屋で借家を建てたので 杉本屋の町の意で 杉ノ町とつけた。
杉野町とかくのは後のこと。
 明治三十九年七月十六日十七日の大雨で上河原 下河原(しも町の南方と北方)流失の記録があるのでこの後であることは 明らかである。

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すみだ 角田
 津島神社の前の辺がすみだである。すみっこの方に拓かれた田の意であろうか。四百年ばかり前 手賀野村が駒場村から分れた時 手賀野村の庄屋を勤めた岡本惣左衛門という人は この角田から移ったと書かれている。

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すや
 昔はすをうる店だったから すや。

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ずんさがり
 根の上。ずんずんさがっていくので ずんさがり。

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せきへきじょう 赤壁城
 すやの 銘菓に「赤壁」がある。これは苗木城が赤壁城と呼ばれていたという故事によって名づけられたものである。
1 苗木城に白い壁を塗ると一夜のうちに 何物かの手によってかき落されてしまう。何渡塗り直してみてもかき落されて、赤壁になってしまう。人々は壁に残された爪跡によって、眼下の木曾川の淵深く住む竜の仕業に違いない、と考えるようになった。

2 苗木の城下町のとある商家に美しい一人の娘がおった。彼女は朝な夕な町を通る 裃 姿りりしい若侍に思いを焦がすようになった。秋祭りの夜 遂に彼女は思いを遂げたけれども 二人の間の身分の差はどうすることも出来なかった。やがて身重の身を木曾川に投げた彼女は 白蛇と化し おのれと同色の白をいとい、城に白壁がぬられる度に 忽ち一夜にしてこれをはぎとってしまうのであった。

3 苗木藩は小藩でとても 白壁にぬり上げるだけの費用がなかった。また岩壁上の城だけに壁ぬり作業は危険で、引き受け手がなかった。こういう訳で赤壁のままであった。

 等々の伝説に彩られているが 苗木城が赤壁であった真の理由は 次の様なことであったらしい。
 苗木城の外に今一つ赤壁のままあったのは、城主遠山家の菩提寺雲林寺であった。遠山家には白馬にまたがって戦う者は戦に死し 白壁の城は落城するという先祖よりのいい伝えがあった。従って城と菩提寺の壁だけは いつでも赤壁のままにしておかれたのであった。

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せと 瀬戸
 苗木。狭い通路の意である さと 狭門 迫門からせとにかわったものである。
 大正十五年十一月 大同電力株式会社によって ダムが築かれ 森が鼻(森の入口の意か)に一万五千キロワットの発電所がつくられたのも ここが せとせまい所であったからであろう。

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ぜにがめ
 銭が甕に入っているのを堀り出したので ぜにがめという。
 小さい 銭亀がたくさんおったので ぜにがめ という。

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せんだばし 千旦林
 もとは千駄皈 せんだがやしであったのが 転じて千駄林 千駄橋などとなり、今の千旦林になったものである。一日に千頭もの馬が往ったり来たりした 繁華な所の意である。
 天正十年(一五八二)織田信長か本能寺で倒れた時、可児郡兼山城の城主森長可は信濃におったが たまたまこの変事を聞いて急いで帰国しようとした。その時木曾義昌 苗木の遠山久兵衛は長可の帰路を擁し 福島の宿で討つことが出来なかったら 千駄林の宿で討とうと約した 云々と 木曾考 という本に書かれている。又信長秀吉の時代に書かれたと思われる甲陽軍鑑という本にも、千駄皈の名があり この頃既に著名な村であったことが分る。
 高は五五二石六斗二升。山村甚兵衛 千村平右衛門 山村甚兵衛の入会であった。寛政の頃 一二五戸 男女 五八九人 馬四八匹 牛十匹であった。

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